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 ■北京■

 初めて訪れたのは、もう6年も前になるでしょうか。1997年のことです。
 特別なにかイメージがあったわけでもない土地だったのに、ここが首都なのか、とショックを受けた覚えがあります。
 それぐらい、汚くて、暑くて、埃っぽい街でした。
 次に訪れたのは翌年、1998年でした。1年しかたっていないのに、そこは刻々と変化を見せていました。
 それから過ごした3年半。その間もそこはすさまじい変化を遂げていきました。
 そこで暮らしていてもついていけないぐらい激しい変化。
 街は、確かに生きていました。
 いろいろなことがありました。哀しんで、笑って、怒って、私はそこで暮らしていました。
 躍動する、街とともに。


 ■語る■

 語る、ということが好きでないという人は少ないかと思われます。
 私はたいそうおしゃべりで、人と話すことが高じて話を語るようになりました。
 それは私自身のことであったり、私の妄想であったり、他の誰かのことであったりします。誰かが語ることは往々にして面白く、それに思いをはせることもあります。語る内容もまた、その方の性格や知性を表していてとても楽しめます。
 ただできるなら、誰かの顔を見ながら語りたいものですし、語っていただきたいものです。
 言葉をつらつらと紡ぐことだけでは伝えられることは限られています。本来語ることとは、相手の目を見ながらされたことなのではないでしょうか。
 もし私の語る話で貴方が少しでも幸せになれるなら、さいわいかと存じます。


 ■想思■

 想という字と思という字は両方とも「心」から成り立っています。
 想思、人をおもうという心にはいろいろな形があります。その中で最も普遍性の高いおもいとは、恋と呼ばれるものではないでしょうか。
 ある人が人をおもう。その心は必ずしもおもった人にとどくとはかぎりません。そして、とどいたとしても、そのおもいを受け入れてもらえるかどうかもわかりません。
 おもい、おもわれ、おもいがとどかなくてつらかったことも、その優しい心を受け入れることができなかったこともあります。
 おもいがその時とどいてもうまくいかないこともありました。それはきっと、互いのおもいがすれちがっていたのかもしれません。
 そんなにつらいおもいをしても、どうして人は人をおもうのでしょうか。
 優しい気持ちを忘れないように。心を通わせようとするがために。
 貴方は、今誰かをおもっていますか?


 ■言葉■

 言葉とは、言の葉といわれるきれいな単語だとおもわれます。
 この単語は友人曰く、大和の単語であり、日本語にもともとあった単語であるというのです。
 なるほど、そういわれてみると、ひどく儚い単語であるようにおもえてくるではありませんか。
 想いをそっと伝えようとする慎み深い恋人たち。
 心のなかに閉じこめてしまってはあまりにもったいない気がいたします。
 今宵も淡い言の葉を、どなたが呟くのでしょうか。


 ■妄想■

 小さい頃は色んなことを想像したものです。
 例えば大きくなったら宇宙飛行士になろうとか、本を読めば主人公になった気分で何時間も物語りの展開を考えていたり。
 そんなことをいつまでもやっていると、脳は物事を記憶しにくくなるようで、小さい頃の私は記憶力の薄い子供でありました。
 そういう意味では、大人になるということは想像をしなくなるということなのかもしれません。
 想像しなくなれば合理的に、必要だと思われるあらゆることを記憶するようになります。それはほんの少し淋しいことでもあるのですが、生きていく上で、度を越した想像力は時に己を滅ぼすような気がします。
 それが一般に”妄想”と申すものでございます。